紅葉シーズンの御船山楽園
11/20御船山楽園に行ってきました。御船山楽園は佐賀県武雄市にある庭園で、九州の中でも随一の景観スポットとして有名です。武雄温泉や嬉野温泉といった温泉地の近郊にあり、和風の旅行をするにはうってつけのスポットになっています。
正門から入って進んだ先の正面に広がる景色がこちら。池を囲うように紅葉やカエデの木が立ち並び、後ろに岩山(御船山)がそびえ立ちます。池から岩山までの急傾斜に景色が収まっているので、立体的に見え、より美しさを感じることができます。
赤色、オレンジ色、黄色のグラデーションが広がっています。発色がよく、とても濃い色で綺麗ですね。
紅葉の美しさの要因には、複数考えられており、秋の寒暖差や適度な水分(降水量)などがあります。中でも、夏場に台風が少なかったことが一番大きな要因かと思います。葉がなくなったり傷んでしまうと紅葉になりませんからね。また来年も美しい景観になるよう育ってほしいです。
三井セメント専用線(福岡県金田~見立)廃線跡 散策
今日は、三井セメント専用線(金見鉄道)廃線跡を散策しました。金見鉄道は三井セメントの専用線で、三井セメント田川工場(見立駅)と金田駅(現平成筑豊鉄道伊田線)を結んでおり、金田と見立から「金見鉄道」と呼ばれていました。
三井セメントは、田川市の関の山鉱山から石灰石を採掘し、鉱山に隣接する田川工場でセメント・クリンカを生産し、金見鉄道で積み出していました。積み出された貨物は、見立→金田→直方→折尾→若松or門司港へと運ばれ、港から船で出荷されていました。この路線は1964年に開通しましたが、三井セメント田川工場の閉鎖に伴い、2004年に全線廃線となりました。
九州の筑豊地方は廃線が非常に多いですが、その大半が1970年以前に廃線となったため、あまり遺構が残っているものがありませんが、金見鉄道は2004年廃線のため比較的多くの廃線跡を見つけることができます。
・廃線跡
下の地図は、金見鉄道が存在したころ(1980年代)のものです。地図の上部に金田駅があり、赤線の落書きの方向に延びる路線が金見鉄道です。平成筑豊鉄道金田駅から南西方向に分岐して伸びていき、田畑を割っていくように進んだのちに山岳部に入り、見立の三井セメント田川工場(赤い丸印付近)に着きます。
始発駅の金田駅付近の廃線跡は、完全に舗装されており、車道となっています。
車道をまっすぐ進み、中元寺川付近(下の地図の赤丸箇所)に来ました。
下の左の写真が、盛り土の跡です。廃線跡は、金田駅から続く車道から西に外れて盛り土跡の丘を進んで、中元寺川に向かっていきます。下の右の写真が、中元寺川を跨ぐ橋梁の跡です。手前の道路にはレールが残っています。
中元寺川を跨ぐ橋梁を横から見たものが下の写真です。錆びて茶色くなっていますが、開通が1964年で筑豊地方の鉄道路線の中では比較的若いので、まだ十分使えそうな気がします。
中元寺川を越えると田園地帯が広がっており、廃線跡は舗装されて遊歩道となっています。
遊歩道が数キロにわたって続きますが、しばらくすると盛り土跡の丘となり、山に向かって少しずつ登っていきます。盛り土跡のほとんどが残っており、下のような橋梁跡も見られます。
路線は田園地帯を抜けると山間部に入っていきますが、山間部にはほとんど立ち入ることができなかったので、JR後藤寺線船尾駅から迂回しました。
上の地図の赤丸付近に跨線橋がありました。現在は自動車道となっていますが、線路の上を跨いでいた名残で、橋に「金見鉄道」と表記されています。
金見鉄道の終着駅(赤丸付近)に来ました。現在この場所は道の駅となっています。
道の駅のすぐ近くに三井セメント田川工場跡があります。現在は一部麻生セメントの敷地となっているようですが、三井セメントの解散以降、実質廃墟と化している状況です。
日豊本線貨物支線(苅田港線)廃線跡
今日は日豊本線の貨物支線、苅田港線(以下、苅田港線)の廃線跡について取り上げたいと思います。苅田港線は日豊本線小波瀬西工大前駅から分岐して苅田港へ向かうルートで、1944年に開通し、2016年に廃線となりました。
・場所
この地図は1970年代の地図です。地図の左隅を通っているのが日豊本線で、小波瀬西工大前から右上方向に分岐しているのが苅田港線です。苅田港線は北東方向に真っすぐ延びて苅田町の埠頭に向かい、苅田港の麻生セメント苅田工場・宇部興産苅田セメント工場、九州電力苅田発電所、太平洋セメント苅田SSなどの各工場の専用線に分岐していきます。この路線は、日本セメント香春工場で採掘した石灰石、その他田川地方の石炭輸送を目的として営業されていました。
石灰石や石炭など、重化学産業の大量輸送のためとはいえ、貨物支線が国道10号線を横切るというのは、かなり珍しいですね。本数が少ないとはいえ、踏切で一旦停止が必要なので、国道の渋滞を招いていたかもしれませんね。
・沿革
1944年:行橋~苅田港開業
1949年:小波瀬~苅田港開業(起点駅を行橋→小波瀬に変更)
1987年:国鉄→JR貨物に事業主変更
1989年:日本セメント香春工場→勾金→苅田港の貨物輸送廃止
2005年:事実上の貨物廃止(営業廃止も、踏切、信号等は残存)
2016年:苅田港内での専用線の営業廃止で、苅田港線全線廃止
・廃線跡
この写真は日豊本線小波瀬西工大前駅付近です。苅田港線の名残か、レールのポイントが見られます。
下の写真はわかりにくいですが、日豊本線と苅田港線が分岐したと思われる場所です。架線のある日豊本線は左から正面奥に向かって延びていますが、その手前で右に曲がる盛り土の跡が見られます。
日豊本線から分岐すると、北東方向に真っすぐ車道が延びており、それと並行して廃線跡の盛り土が続いています。
下の写真は踏切跡と思われる場所です。現在は舗装されて新しい車道になっていますが、手前に踏切が存在していたころの路石のようなものが残っています。
廃線跡の草むらをさらに進むと、また踏切跡が見えました。こちらはレールを残しており、ハッキリと確認することができます。
さらに道を進むと、国道10号線と交差します。下の写真が国道10号線を横切る踏切跡です。主要な国道を横切るとは、随分と豪快な路線ですね。本数が少ないとはいえ、踏切前の一時停止義務があるので、渋滞になりやすそうです。
国道10号線を横切ると住宅地に割って入っていきます。廃線後、多くは車道かされたり宅地化されていますが、民家と民家の間に所々廃線跡が残っていました。下の写真は、民家の間のスペースに残っていた踏切跡です。この辺りは1970年代後半までは田畑が広がる地域でしたが、80年代以降宅地化が進み、それ以降は民家の脇を貨物列車が通っていたと思われます。
下の写真のように、住宅地の中で、廃線跡の上からアスファルトで固めて舗装した道も見られました。
住宅地を過ぎると川を跨ぎますが、橋は取り外されており、遺構を見ることができませんでした。
住宅地を抜けると、港に向かってまっすぐ進みます。工場や倉庫が建ち並ぶ中で、廃線跡の茂みがちょうど真っすぐに残っています。
茂みが深く、倉庫などの私有地があるたけ、廃線の上を通ることはできませんでしたが、迂回して苅田港駅付近に来ました。現在はほぼ完全に撤去されており、ほとんど遺構を確認することができませんでした。
ただ、現在もなお砕砂や石炭などの積み場となっています。写真の奥に九州電力苅田火力発電所、宇部興産苅田セメント工場、麻生セメント苅田工場、太平洋セメント苅田SSなどが並んでおり、現在も稼働を続けています。
以上、国鉄日豊本線貨物支線(苅田港線)の廃線跡を辿ってみました。2000年代まで残っていたためレールや踏切が残っている箇所が多く、ハッキリと確認することができました。
路線が貨物営業を行っていた時代は、田川地方で積まれた石灰や石炭の貨車が行き交っていたことを考えると、哀愁が感じられますね。
廃線跡巡り 旧国鉄田川線 夏吉支線
今日は、福岡県香春町に位置する旧国鉄田川線夏吉支線の廃線跡を散策しました。夏吉支線は1899年に開通し、豊州鉄道→九州鉄道→国鉄田川線と事業体を変えながら営業を続け、1973年に廃線となりました。その後1976年に日本セメント専用線として復活し、1989年に再度廃止されて現在に至ります。旅客営業を行っていた時期もありましたが、基本的には香春岳で採掘した石灰石や、旧日本セメント香春工場で生産したクリンカ(セメントの中間品)の輸送などを行ってきた路線です。
手持ちの道路地図に廃線跡と推定される線を引いてみました。勾金駅から北東方面に分岐し、北に向かってカーブし、反時計回りを描きながら進んで日田彦山線と交差し、御祓川と並走します。
・勾金駅
旧国鉄田川線(現平成筑豊鉄道田川線)の勾金駅に来ました。この駅は2面2線の駅ですが、旧夏吉支線の線路が残っています。確認できる廃線の線路は1線ですが、駅の敷地面積的に、3面4線ぐらいの規模だったのではないかと思います。
廃線跡の残るホームに来てみました。この線路はホームに面する部分のみ残されており、その先は撤去されています。右の写真が駅から西(夏吉支線の進行方向)を向いたものですが、路線はこの後左へとカーブしていきます。
勾金駅から向かって左へとカーブすると、住宅地に入っていきます。民家が並んでいますが、廃線跡の部分だけ砂利道になっていました。
その先に進むと、完全に舗装された車道が続きます。途中、炭鉱のボタ山跡(右写真)がありましたが、飯塚のボタ山のように綺麗な円錐状にはなっていないので分かりにくいです。なお、このボタ山は現在太陽光発電のパネルの設置場になっていました。
さらに進むと、香春岳の採石場と旧日本セメント香春工場が見えてきました。
その後左へ左へと反時計上に曲がっていき、日田彦山線と交差します。この高架は、1915年の小倉鉄道時代からそのまま残っている石垣造りの非常に古い構築物です。
日田彦山線の高架下をくぐってそのまま西に進むと、旧夏吉駅付近に着きます。残念ながら夏吉駅跡とハッキリと確認できるものを見つけられませんでした。夏吉駅付近からは、香春岳と旧日本セメント香春工場を一望することができます。今は畦道となっていますが、夏吉駅からさらに日本セメント専用線が向上に向かって延びていました。
時系列
夏吉支線
1899年 夏吉~勾金 開通
1973年 同区間営業廃止
旧日本セメント香春工場
1883年 浅野総一郎が官営払下げでセメント事業開始(浅野セメント設立)
1935年 浅野セメント香春工場設立
2000年 香春工場 香春太平洋セメント(株)に譲渡
2004年 香春太平洋セメント解散・香春工場閉鎖
→香春鉱業(株)に鉱山事業のみ承継
平成筑豊鉄道 乗車記(田川線)
平成筑豊鉄道 乗車記 田川線
今日は、九州北部を走る第三セクター、平成筑豊鉄道に乗車しました。1895年開通と、路線の歴史は古く、豊州鉄道→九州鉄道→国鉄→JR九州→平成筑豊鉄道と所有が変わり、線区も変更して現在に至ります。
明治~昭和中期までは、筑豊炭田の石炭を行橋経由で苅田港に積み出すことを目的とし、炭鉱輸送で一時代を築き上げました。しかし、炭鉱閉鎖が相次ぐと規模は徐々に縮小していき、第三セクター化されました。現在は1時間に平均1~2本の1両編成の運行で閑散とした路線ですが、1895年発祥で日本の鉄道の中でも有数の長い歴史を誇る路線のため、非常に価値ある史跡を多数見ることができます。
・行橋
平成筑豊鉄道田川線の始発駅は行橋駅です。行橋駅は、2面5線のホームになっており、JR九州日豊本線が1~4番線、平成筑豊鉄道が4番線の奥の5番線から発着します。ホーム上に改札があり、平成筑豊鉄道の中では数少ない有人駅となっています。(有人の時間帯はかなり限られていますが、、)
・豊津
豊津駅は入れ替わりのために2面2線となっています。1両の列車にしては入れ替わりの線路が長すぎるなと思ったのですが、おそらく貨物輸送時代の名残ですね。金田駅や伊田駅、夏吉駅で積んだ石炭を苅田港に運ぶ際にすれ違ったのでしょうね。
・新豊津~東犀川三四郎
行橋を出ると、しばらく市街地が続きますが、すぐに農業地帯が広がります。広大な盆地の向こうに、塔ヶ岳・観音山など、急峻な連峰を望むことができます。線路沿道の花畑も映えていますね。
・源じいの森
崎山~源じいの森間には石坂第二トンネルがあります。これは1895年の開通時からそのまま使われているトンネルで、1999年に国指定の登録有形文化財に登録されました。
・油須原
源じいの森を過ぎると、油須原に着きます。この駅は1895年の開通当初からあった駅で、当時からそのまま使われており、国内最古の駅の一つと思われます。当時そのままの木造駅舎で、昭和レトロ感ある郵便ポスト、改札には切符売り場ではなく、「出札所」があります。駅票の「ゆずばる」の札も国鉄時代そのままですね。
・勾金
油須原を過ぎると路線は北に大きくカーブしていき、香春岳に向かってまっすぐ進みます。そして、内田を過ぎると徐々に西に進路を変え、勾金に着きます。
上の写真が勾金駅です。この駅は、旧夏吉支線との分岐駅でした。夏吉支線は1899年~1973年まで営業し、日本セメント香春工場から石灰石を積み出す貨物路線でしたが、事業縮小や輸送機関の代替によって廃止されました。
この駅は現在2面2線のホームとなっていますが、写真を見ると奥に線路が残っており、営業当時は2面3線あるいは3面4線の駅であったと考えられます。貨物輸送の分岐駅ということもあり、現在でもホームが非常に長く、広大な敷地が残っています。
・上伊田
勾金を過ぎると、西に向かって進み、香春から西に進む日田彦山線が近づいてきます。上伊田を過ぎると並走区間となり、現在は異なる事業体でありながらも、1895~1989年までは同じ事業体であったことを感じさせられます。
・田川伊田
現在の平成筑豊鉄道田川線の終着駅が田川伊田です。日田彦山線との接続駅で、2面4線の広い駅となっています。
この駅はもともと「伊田」駅で、初期の豊州鉄道の終着駅でした。上の写真を見ると、駅票に「たがわいた」と書かれていますが、老朽化で塗料がはがれ、昔の「いた」の表記がうっすらと見えており、旧駅の名残を確認できます。
また、田川伊田駅は、付近に三井伊田炭鉱など巨大な炭鉱所が複数あり、石炭の積み出しの要衝となっていました。現在も駅の周辺に炭鉱跡として「石炭記念公園」が残っており、炭鉱所の煙突跡などを見ることができます。当初は三井伊田炭鉱の石炭を伊田駅から貨物で積み出し、苅田港方面に出荷していたようですね。
以上、第三セクターの平成筑豊鉄道田川線に乗車していきました。1895年に開通した非常に歴史の長い路線で、戦前から昭和中期の炭鉱などに思いを馳せることができました。
JR九州 日田彦山線 乗車記(城野~田川後藤寺)
日田彦山線 乗車記
城野から分岐して田川後藤寺を経由して添田、夜明方面に向かう日田彦山線。1915年に開業以来、炭鉱や鉱山の貨物で繁栄した歴史ある路線です。今回は、城野から田川後藤寺まで乗車しました。
城野駅
日豊本線との分岐駅。小倉発のキハ47が到着。
3面5線の大きな分岐駅ですが、意外にも特急は停車せず、普通のみの停車絵駅となっています。
日田彦山線はもともと石田から東に進み、東小倉を終着駅としており、城野を通るようになったのは1956年です。1915年に日田彦山線が開通したことを考えると、歴史的には新しいですね。
石田~石原町
城野を過ぎるとしばらくは北九州市の住宅街を通ります。しかし、志井公園を過ぎると徐々に山に入っていきます。画面中央の鋭角の山は貫山です。
呼野
石原町を過ぎると、山岳地帯に入っていきます。そして呼野駅に近づくと、向かって左手に石灰石の東谷鉱山が見えます。山が削り取られて山肌が石灰石で白くなっているのが見えます。
以前は石原町から東谷鉱山方面に分岐し、石灰石を黒崎方面に運び出す路線がありましたが、現在はトラック輸送に代替され、町も駅も閑散としています。
採銅所
呼野を過ぎると、山はいっそう深くなり、金辺トンネルに差し掛かります。金辺トンネルは日田彦山線の祖先に当たる金辺鉄道が掘削工事に失敗して経営破たんした歴史があります。そんな難所を越えると、採銅所駅に着きます。
「採銅所」が駅名とは、あまりにもシュールすぎるなと、初めて駅名を見たときは思いましたが、地図を見たところ、付近の地名も「採銅所」であり、駅ができる前からそう呼ばれていたそうです。
地元の図書館で郷土史を調べてみたところ、奈良時代から銅の発掘・開発が進められていたそうです。そして、この採銅所で銅を採掘して宝鏡を鋳造して宇佐神宮に奉納していたそうです。ただ、銅の露天掘りは古代に枯渇した説が濃厚です。
香春~一本松
採銅所を過ぎると、山間部を抜けて見通しの良い盆地に差し掛かります。香春駅付近から向かって右には、香春岳が見えます。香春岳は3つのこぶがあり、それぞれ一ノ岳・二ノ岳・三ノ岳と呼ばれています。右写真の左部分、左写真の中央部に移っているのが一ノ岳です。本来は高いこぶ状の山でしたが、石灰石の鉱山のため、長年の採掘で削り取られて半分になっています。
石灰石鉱山である一ノ岳で操業していたのは、日本セメント(のちの浅野セメント→現太平洋セメント)です。現在は廃業となり、稼働していませんが、工場跡を見ることができます。(一部が太平洋セメントのセメントSS)
田川伊田
一本松を過ぎると、平成筑豊鉄道田川線と合流して田川伊田に着きます。田川伊田は、三井伊田炭鉱など、巨大な炭鉱が複数あり、石炭積み出しの要所となっていました。駅付近には炭鉱後の石炭記念公園があり、伊田炭鉱の櫓と2本の巨大な煙突が見えます。
田川後藤寺
田川伊田を過ぎると間もなく田川後藤寺に到着します。田川後藤寺も田川伊田と同様に石炭積み出しの主要な駅であり、その名残で現在もなお広い敷地を持つ駅となっています。
実はもともと田川伊田は伊田駅、田川後藤寺は後藤寺駅という名称でした。どちらかを田川駅に改称する予定でしたが、ともに田川の中核をなす駅であったため決着がつかず、結局両駅に「田川」をくっつけて改称することで落ち着きました。
以上、城野~田川後藤寺まで乗車しました。呼野の東谷鉱山に、銅鉱山の採銅所、香春岳の石灰鉱山、田川の炭鉱など、資源に恵まれた路線ですね。素材産業の栄華に思いを馳せながら乗ることができました。
JR九州 日田彦山線の歴史・成立
今日は、JR九州の日田彦山線を取り上げたいと思います。日田彦山線は、小倉から日豊本線で3駅進んだ城野から南西方向に分岐し、筑豊・京築地区の山間部、盆地を抜けて大分県日田市に向かう路線です。路線距離は68.7kmですが、2017年の九州北部豪雨により、添田~夜明間が運休となり、実質小倉~添田間で運行しています。
度重なる災害に加えて、利用者減による不採算に悩むローカル路線ですが、炭鉱や鉱山と密接にかかわり、また会社再編などで路線が何度も変わっており、歴史的に非常に興味深い路線です。
概要・歴史
日田彦山線は何度も路線が変わっており、その歴史的経緯から、路線区間を城野~香春間、香春~田川後藤寺~添田間、添田~夜明間の3つに分けて考えることができます。
城野~香春間
この区間の歴史は、1896年まで遡ります。1896年に金辺鉄道が発足し、路線建設が開始されました。 しかし、現在の呼野~採銅所間に相当する金辺峠のトンネル工事が難航し、開業せずして会社は解散になりました。
その後、金辺鉄道の債権者らが事業を継ぐ形で1903年に小倉鉄道を設立し、1915年に東小倉~上香春(現香春)~上添田(添田)間が開業しました。この区間は現在と2か所異なっています。
第一に、始発駅です。小倉鉄道の始発駅は、現鹿児島本線の小倉~門司間の東小倉でした。東小倉から南に線路が伸び、現現在の分岐駅である城野は通らずに高架で跨ぎ、石田駅から現在の路線と同じところを通っていました。当時は城野を通っていなかったため、旅客用としての乗換アクセスはあまりよくなかったものと思われます。ちなみに、1956年に石田~城野間が開通し、1962年に石田~東小倉間が廃止となり、現在と同じルートとなりました。つまり、小倉鉄道が開通してから40年間は、現日豊本線と接続していなかったということですね。
第二に、上香春(現香春)~上添田(現添田)が現在とは異なるルートで開通しています。当時の路線は上香春を過ぎると、田川伊田方面ではなく、南にカーブして現平成筑豊鉄道田川線を高架で跨ぎ、今任・大任を通って上添田(現添田)に着きます。地図で見ると、田川伊田や田川後藤寺を通らない短絡線のような路線にも見えます。この区間は、詳細は後述しますが長らく営業を続け、1985年に廃止されて現在に至ります。
以上2点が現在の路線との相違ですが、小倉鉄道として1915年から営業を開始しました。小倉鉄道は1943年まで路線営業を続け、日本国有鉄道に売却しました。なお、国有化された際に線路名称が制定され、同区間は「添田線」となりました。
香春~後藤寺~添田
次に、現存する香春~添田間(田川後藤寺経由)について触れます。この区間は、もともと行橋~伊田間の路線を持つ豊州鉄道が1896年に伊田~後藤寺間を延伸開業するところから始まりました。1899年には後藤寺から川崎(現豊前川崎)まで延伸され、さらに1903年には添田まで延伸され、伊田~添田間が全通しました。なお、1901年に豊州鉄道は九州鉄道に吸収合併され、伊田~添田間は九州鉄道保有となりました。この路線はさらに添田から南に延び、彦山まで開通しました。
その後1907年に国有化されて国鉄となると、1909年に線路名称が変更され、同区間を含む行橋~伊田~添田間は「田川線」となりました。
添田~夜明
現日田彦山線の南部に位置するこの区間は、私鉄発祥の上記区間とは異なり、かなり後から新設された区間です。この区間は、1937年に国鉄彦山線として夜明~宝珠山間が開通したところから始まりました。彦山線は1946年に北に向かい、宝珠山~大行司まで延伸し、1956年には彦山まで延伸しました。
3つの区間の再編~日田彦山線の成立
上記の3区間は、国鉄になって以降路線が再編されて現在の日田彦山線へとなります。
まずは1956年に東小倉~香春~添田~夜明の区間が「日田線」に改称されました。これは、国鉄添田線と、田川線の添田~彦山間、そして彦山線が合体する形になりました。
その後1960年には、日田線から香春~大任~添田間が分離され、代わりに田川線の香春~伊田~添田間が併合され、現在と同じ城野~後藤寺~夜明をルートが日田彦山線となりました。なお、分離された香春~大任~添田間は「添田線」となり、1985年の廃止まで営業を続けました。
以上、日田彦山線が成立するまでを述べましたが、小倉鉄道や豊州鉄道、九州鉄道といった戦前の私鉄が絡んでいるほか、国有化後も、国鉄添田線、田川線、彦山線、日田線と、何度も区間や名称を変えた末に成立したので、非常にややこしいですね。
余談ですが、日田彦山線の区間は炭鉱や鉱山が非常に多く存在し、旅客よりも貨物輸送が盛んで、貨物専用線も多々存在しました。炭鉱貨物の豊前川崎~第一大任(1974廃止)、豊前川崎~第二大任(1970廃止)、石灰石貨物の東谷鉱山専用線(1996廃止)などがありました。次回は、このあたりに現地訪問してアップしたいと思います。
年表
・小倉鉄道
1915 小倉鉄道 東小倉~上香春~上添田 開業
1896 豊州鉄道 伊田→後藤寺 延伸
1899 後藤寺→川崎(現豊前川崎)延伸
1901 合併して九州鉄道に
1903 川崎→添田 延伸
1907 九州鉄道の国有化
・国鉄彦山線
1946 宝珠山→大行司 延伸
・国鉄日田線
1956 国鉄彦山線 大行司→彦山 延伸
1956 東小倉→石田→香春→大任→添田→夜明が国鉄日田線に改称
1956 石田~城野間が開通
1960 城野→香春→後藤寺→添田→添田→夜明ルートを国鉄日田彦山線に改称